東京地方裁判所 昭和46年(つ)18号 決定 1972年3月22日
請求人 水野勝吉
決 定
(請求人・代理人弁護士名略)
右の者から小林登、平沢圀昭、徳本辰夫、佐藤安信を被疑者とする刑事訴訟法二六二条一項の請求があつたので、当裁判所は、次のとおり決定する。
主文
本件請求をいずれも棄却する。
理由
第一、本件請求の要旨
一、請求人は、昭和四四年一二月八日、被疑者小林登、同平沢圀昭の両名につき左記被疑事実(一)の所為は刑法一九五条(特別公務員暴行陵虐)の罪に、被疑者小林登、同平沢圀昭、同徳本辰夫、同佐藤安信の四名につき左記被疑事実(二)の所為は同法一九六条、一九五条(特別公務員暴行致傷)の罪にそれぞれ該当するとして、東京地方検察庁検察官に告訴したところ、同庁検察官は捜査の結果、昭和四六年四月二六日付でいずれもこれを不起訴処分に付し、請求人において同年五月一日その旨の通知を受けたが、この処分に不服であるから、刑事訴訟法二六二条により右事件を東京地方裁判所の審判に付することを求めて本件請求に及んだというものである(なお、本件審判請求書に記載されている被疑事実の内容は、附属書類として添付されている昭和四四年六月付の告訴状写と対照すると、明確でない部分もあるが、結局同年一二月八日付告訴状に記載の告訴事実第一および第二と同旨であることは、事実調の結果により認められる)。
二、被疑事実
被疑者小林登、同平沢圀昭、同徳本辰夫、同佐藤安信は、いずれも東京都足立区千住一丁目八三番地所在の警視庁千住警察署に看守係警察官として、法令によつて拘禁されている者を看守する職務に従事していたものであるが、
(一) 被疑者小林登、同平沢圀昭の両名は、同署警察官二、三名(氏名不詳)と共謀のうえ、昭和四四年五月一日午前一時三〇分ころ、同署留置場内において、公務執行妨害被疑事件の現行犯人として逮捕、留置されていた請求人水野勝吉を取り囲み、被疑者平沢が右手で請求人の前頭部を突きとばし、右手拳でその右眼を殴打し、これと同時に被疑者小林が二、三名の警察官(氏名不詳)とこもごも手拳で請求人の頭部および顔面を殴打し、靴でその頭部をけるなどの暴行を加え、さらに、右被疑者らは請求人を同留置場第六房に連行し、同人の腕や肩を押えて同房の壁に押しつけて動けないようにしたうえ、被疑者平沢が右手で請求人の喉をしめつけ呼吸困難に陥れるなどの暴行を加え、また、被疑者小林が右房外から請求人に対し二回にわたり洗面器にくんだ水をあびせかけるなどの暴行を加え、
(二) 被疑者小林登、同平沢圀昭、同徳本辰夫、同佐藤安信は、前記千住警察署看守係角屋敷正生と共謀のうえ、同日午前七時三〇分ころ前記留置場第六房において、全裸の請求人を取り囲み、こもごも手拳で請求人の顔面を殴打し、さらに同人の両手に後手錠をかけて転倒させてその両足首にも手錠をかけ、その両手錠を背面でロープをもつて結び、いわゆる「逆えび型」に緊縛したうえ、こもごも手錠をかけた手首のうえに靴をはいたまま飛び乗つてゆさぶり、あるいは同人の右頭部、右胸部、右腹部、背中、右大腿部、右脚部を靴でけるなどの暴行を加え、その後同日午前一〇時ころまで同人を「逆えび型」に緊縛したまま房内に放置したが、その間に再度入房して同人の右頭部、右顔面、右胸部、右腹部、背中、右大腿部、右脚部などを靴でけるなどの暴行を加え、よつて同人に対し右第八肋骨骨折、両前腕手関節部、両下腿足関節部圧挫傷の傷害を負わせ
たものである。
第二、当裁判所の判断
一、本件記録および事実調の結果によれば、昭和四四年一二月八日、請求人は、前記被疑事実(一)および同(二)につき東京地方検察庁検察官に告訴したところ、同庁検察官八巻正雄は、昭和四六年四月二六日、前記被疑事実(一)について被疑者小林登、同平沢圀昭の両名には犯罪の嫌疑が不十分であり、前記被疑事実(二)については、被疑者小林登、同佐藤安信の両名が請求人に対する暴行に加担し、あるいは角屋敷正生らと共謀したことを認定するに足りる証拠は十分でないけれども、被疑者平沢圀昭、同徳本辰夫の両名が角屋敷正生と共謀して特別公務員暴行に及んだことは明白であり(もつとも、請求人の前記肋骨骨折等の傷害が被疑者らの本件暴行に起因するものとは認められない)、ただ、右両名は、いずれも看守係主任である角屋敷正生の部下であつて、本件犯行を企図した同人の指示のもとに、これを了知しつつ、その命ずるままに行動したにすぎない状況や、その意向に逆うことが極めて困難であつた事情、および同人に比しその暴行の程度も比較的軽いものであつたことなどを理由に、主犯である角屋敷正生のみを訴追すれば、右被疑者両名を起訴せず、起訴猶予とするのが相当であると認め、結局、被疑者四名をいずれも不起訴処分に付し、同年五月一日その旨を請求人に通知したこと、並びに請求人は同月七日当裁判所宛の本件審判請求書を東京地方検察庁検察官に差し出し、同月一二日同庁検察官より当裁判所に、本件請求は理由がない旨の意見書を添えて一件不起訴記録(昭和四四年検第四九一三一号ないし第四九一三四号特別公務員暴行被疑事件)および証拠物(昭和四六年東地領第一一九八号の符一号ないし二一号)とともに送付のあつたことが明らかである。したがつて、請求人の本件請求手続は適法ということができる。
二、請求の理由の有無に対する判断
1 本件発生に至る経過と警視庁千住警察署留置場の運営状況等について
不起訴記録および証拠物、被告人水野勝吉、同竹内保広に対する東京地方裁判所昭和四四年刑(わ)第二四四三号公務執行妨害被告事件(以下別件という)の訴訟記録および証拠物(昭和四四年押第一〇〇七号の一ないし六)、並びに事実調の結果を総合すると、次の事実が認められる。
(一) 請求人水野勝吉は、ハツリ工として同僚の竹内保広と同じ飯場で働いていたものであるが、昭和四四年四月三〇日午後一一時三五分ころ、東京都足立区千住旭町四五番地先路上で、警視庁千住警察署北千住駅東口派出所勤務の警視庁巡査杉山広が、右竹内保広に対し、酒酔い運転の疑いで職務質問をし、右派出所に任意同行を求めた際、右捜査を免れる目的で、右竹内と共謀のうえ、同巡査の胸元を掴んでゆさぶり、手拳で同巡査の胸部を殴打するなどの暴行を加え、さらに、請求人の右暴行を制止しようとした警視庁千住警察署勤務の警視庁巡査長瀬口英雄に対し、同巡査長のえりを掴んでひき廻すなどの暴行を加え、もつて前記杉山巡査および瀬口巡査長の右職務の執行を妨害したとの被疑事実により、右竹内ほか一名とともに現行犯人として逮捕され、同日午後一一時五〇分警視庁千住警察署司法警察員に引致されたこと、および請求人水野に対しては直ちに同署刑事課捜査第三係長尾形勇治により弁解録取の手続がとられたが、当時請求人水野はまゆのところから出血していたので、同署巡査海老原大三に同行されて管内の足立区柳原一丁目三六番八号足立共済病院で治療をうけたのち、翌五月一日午前一時二〇分ころ再び前記千住警察署に連行されて同署留置場に収容されたこと。
(二) 警視庁千住警察署は、東京都足立区千住一丁目八三番地に所在し、本件発生現場である留置場は、同署北側にあつて、留置場出入口を入ると看視台を含む約一〇平方メートルのコンクリート床があり、同床は房寄りの部分が半円形になつていて、留置房が看視台をほぼ中心として階上に六房(中二階式)、階下に六房(半地下式)が扇形状に設けられている。階上房は、向つて右側から女子房、第一〇房、第九房、第八房、第七房、少年房の順序で、階下房は、向つて右側から第六房、第五房、第四房、第三房、第二房、第一房の順序で各房が並んでおり、本件犯行現場である第六房を見とおし可能な房は、階下では第一房、第二房および第三房であり、階上では少年房、第七房および第八房で、その他の房から第六房を見とおすことはできない(検証調書添付一覧表参照)。
なお、被疑者留置規則実施要綱第一の3(留置場の構造、設備等についての配意)は、その(2)として、「留置場には、少年房および女子房を指定し、他の房からそれぞれ見とおしができないようにするものとする。」旨を定めている。
(三) 前記千住警察署留置場および留置人の管理については、被疑者留置規則(昭和三二年八月二二日国家公安委員会規則四号、以下留置規則という)、被疑者留置規則実施要綱(警視庁通達甲三号昭和四二年五月二五日付、以下実施要綱という)および千住警察署留置場運営内規(署長達甲六号昭和四二年六月一日付、以下運営内規という)に基づいて実施されることになつていた。すなわち、千住警察署長は、被疑者の留置および留置場の管理について全般の指揮監督に当り、警視総監に対してその責に任じ(管理責任者と呼ばれる)(留置規則四条一項、実施要綱第一の2の(2))、同署刑事防犯課長は、警察署長を補佐し看守勤務の警察官を指揮監督するとともに被疑者の留置および留置場の管理についてその責に任じ(留置主任者と呼ばれる)(留置規則四条二項、実施要綱第一の2の(3)、運営内規第一の2の(1))、留置主任者が不在の場合には、運営内規別表第一に定める順序によりそれぞれの各係長がその職務を代行する(留置主任代行者と呼ばれる)ものとされていた(留置規則四条三項、実施要綱第一の2の(4)、運営内規第一の2の(2))。
本件発生当時における管理責任者は、千住警察署長警視高橋勘治であり、留置主任者は同署刑事課長兼防犯課長警部岡田芳雄であり、留置主任代行者は同署刑事課捜査第三係長警部補尾形勇治であつた。そして、尾形勇治は看守担当の係長でもあつたので(警視庁警察署処務規程二三条の一一)、そのもとに看守担当主任として角屋敷正生巡査部長、看守担当係員として被疑者小林登巡査長、同平沢圀昭巡査、同徳本辰夫巡査長、同佐藤安信巡査、黒沢良平巡査長および有賀温巡査の六名が配置されていたが、看守担当主任の角屋敷正生巡査部長は上司の命を受け、係の事務を分担し、部下の職員を指揮監督し(前掲処務規程二六条の二)、看守担当係員は、いずれも、上司の命を受け、警察事務に従事し(前掲処務規程二七条)、右の六名は二名ずつ三班にわかれて、「日勤」「当番」「非番」という順序で看守勤務につくことになつていた。すなわち、「日勤」は午前七時三〇分から午後四時一五分まで勤務し、「当番」は午前七時三〇分から翌日午前九時三〇分まで勤務してその日は「非番」となり、翌日が「日勤」という順序で勤務するわけであるが、昭和四四年四月三〇日の「当番」は被疑者小林登、同平沢圀昭の両名があたり、翌五月一日朝のいわゆる大交代(運営内規第3の1および3並びに別表第四の「看守勤務例」参照)の時まで勤務し、同日の「日勤」は被疑者徳本辰夫、同佐藤安信の両名があたり、また、同日の「当番」勤務者は黒沢良平、有賀温の両名であつた。
2 被疑事実(一)(告訴事実第一)について
(一) 不起訴記録および証拠物、とくに千住警察署備付の留置人名簿(昭和四六年東地領第一一九八号の符三号)、看守勤務日誌(前同号の符五号)、留置場各房在留者名簿(前同号の符一〇号)等の記載並びに事実調の結果を総合すると、前述のような経緯により公務執行妨害被疑事件の現行犯人として逮捕された請求人水野勝吉は、昭和四四年五月一日午前一時二〇分ころ警視庁千住警察署留置場に連行されたのち、階下第六房に収容され、同日午前六時二〇分ころ階下第四房に移されたこと、他方その当時留置場の看守勤務にあたつていたのは被疑者小林登、同平沢圀昭の両名であり、右両名は同日午前九時五〇分のいわゆる大交代の時まで勤務したのち、当番勤務員黒沢良平巡査長および有賀温巡査と勤務を交替していることが認められるところ、被疑者両名は、いずれも前記被疑事実(一)を否認し、被疑者平沢は、「見張り勤務についているとき、相当酔つぱらつた水野が連行されてきたが、『おれは、こんなところに入ることはないんだ』といつて入ろうとせず、身体捜検にも応じなかつたばかりでなく、つかみかかつて来たり、抵抗するので、第六房に入れて捜検した。水野は『こつぱ役人出てこい。一対一で勝負しろ』と大声でわめき金網をたたいたり床や壁をどんどんと蹴つたりしたので、『静かにしろ』と注意してもきかなかつた。水野が房の中で小便をしたが、臭いので洗面器に水を一杯くんできて金網ごしに水をかけて流した。午前三時に小林と交替して水野のことを申し送つた。午前五時交替した時は、水野はおとなしくなつており、起床後水野を第六房から第四房に移した」旨の弁解をし、また、被疑者小林は、「水野が留置場に入つてきたとき、相勤者の平沢がこれを取り扱い、自分は休憩していたので水野とは接していない。午前三時の交替時に平沢から引継ぎを受けたが、水野は六房で大声を出してわめいたり歌をうたつたりして騒いでいたので、これを注意してもやめなかつた。午前四時ころ、水野は房内から外のコンクリート上に小便をしたので洗面器に水を二杯くんできて小便を流したが、水野には水をあびせかけていない」旨を弁解しているのである。
(二) そこで、不起訴記録および事実調の結果、とくに当夜の留置人の供述を中心に関係証拠を総合すると、請求人水野勝吉が同年五月一日午前一時二〇分ころ、宿直員飛田実巡査部長および垣内正義巡査長の両名に連行されて千住警察署留置場まで来たとき、相当酩酊していて留置場出入口の扉につかまり、「俺がなにをやつたというのか。こんなところに入る必要はない」などと大声でわめき散らし入房を拒んだので、右飛田、垣内の両名は、留置場内で見張り勤務についていた看守係当番の被疑者平沢と協力して、叫んだりあばれたりする請求人水野を抱きかかえるようにして独房である第六房に収容したうえ、抵抗する水野に対し強制的に服を脱がせて身体捜検を実施したこと、および身体捜検後、請求人水野の酩酊状況からみて同房者のいる監房に入れるのは無理であると判断し、同人をそのまま第六房におくことにしたが、同人は、その後も早朝に至るまで房の壁や金網をたたいて暴れたり、「木つ端役人出てこい。一対一で勝負しろ」などと暴言をはき、また歌をうたうなどして他の留置人の安眠を妨害し、その間二回にわたり、すなわち被疑者平沢が看視台に立つていた午前二時すぎころと被疑者小林が看視台に立つていた午前四時ころに、房内で小便をし、被疑者両名がそのつど洗面器で水をくんでこれを流したことがそれぞれ認められる。
(三)ないし(七) (略)
(八) 以上要するに、被疑事実(一)について、被疑者平沢圀昭、同小林登の両名にはいずれも犯罪の嫌疑が不十分であるといわなければならない。
3 被疑事実(二)(告訴事実第二)について
(一) 不起訴記録および証拠物、別件記録および証拠物並びに事実調の結果を総合すると、次の事実が認められる。
(1) 被疑者平沢圀昭、同徳本辰夫、同小林登、同佐藤安信はいずれも本件発生当時前記千住警察署に勤務する警察官であつて、法令により拘禁されている者を看守する職務に従事していたものであること。
(2) 被疑者徳本辰夫、同佐藤安信の両名は、昭和四四年五月一日の日勤者として同日午前七時三〇分ころ千住警察署留置場に入つて看守担当主任である巡査部長角屋敷正生とともに看守勤務についたこと、および被疑者小林登、同平沢圀昭の両名は同年四月三〇日の「当番」勤務者として翌五月一日朝のいわゆる大交代の時まで勤務したこと。
(3) 同年五月一日の前記千住警察署における検察庁および裁判所への護送被疑者は九名で、うち一般護送者一名、特別護送者(いわゆる四・二八事件関係の学生被疑者)八名であつて、一般護送車は同日午前七時ごろ東京地方検察庁第二庁舎を出発し、右一般護送者を同署で乗車させたのち、午前八時四五分ころ右第二庁舎に到着したこと、および特別護送車は同日午前九時五〇分ころ右第二庁舎を出発し、右特別護送者を同署で乗車させたのち、午前一一時四〇分東京地方裁判所に到着したこと、並びに右護送の準備には、被疑者四名を含む看守担当全員がこれにあたり、それぞれ右護送車の到着にそなえて看守事務を進めていたものであること。
(4) 水野勝吉が、同年五月一日午前七時三〇分ころから前記特別護送のための護送準備が完了した同日午前九時三〇分ころまでの間、前記千住警察署留置場第六房において、後手錠・足手錠をかけられ、その両手錠を背面でロープで結ぶいわゆる「逆えび型」に緊縛されて、右姿勢のまま同房内に放置されていたこと、およびその際同人は顔面等を手拳で殴打され、さらに同房内にうつ伏せに押し倒されてその背部等を靴ばきの足で蹴られる等の暴行をうけたこと。
(5) 水野勝吉が同年五月二七日医師越川宏一に診察を受けた際、その両前腕手関節部および両下腿足関節部に境界鮮鋭なやや褐色調をおびた淡赤紫色の帯状の圧痕が認められたが、同年七月八日(初診後四二日目)の第二回目の診察のときには両前腕・下腿の圧痕はほとんど退色しており、ただ白色の小線状瘢痕を形成している部がみられたこと、および前腕・下腿部の圧痕は受傷後初診時まで二週ないし五週間を経過しているものと推定され、その部位、分布、形態からみて極めて特異なものと思われたことは、越川宏一作成の意見書および別件における同人の証言により明らかであり、別件の昭和四四年六月二八日の公判期日当時においても、水野の(イ)右手の中指の先端から腕の方向に約二六糎のところにほぼ腕を横断する形で長さ約五・五糎の細い傷痕がかすかに認められ、(ロ)左手の親指の先端から腕の方向に約一二糎のところに約三糎の月型の傷痕がかすかに認められ、(ハ)右足のくるぶしの中央から約四・五糎のところに約三糎のかすかな細い傷痕が認められ、さらにその傷痕から三粍位の間隔を置いてもう一条のかすかな傷痕が認められ、(ニ)左足のくるぶしの中央から約三糎のところに水平に約四糎の細い傷痕がかすかに認められたこと(第二回公判調書中の検証の結果参照)、および前記(4)で認定の暴行の手段、態様を考えあわせると、右の両前腕手関節部および両下腿足関節部の圧挫瘢痕は前記暴行により生じたものと推認できること。
(6) 右水野勝吉に対する両手錠およびロープの使用並びに前記暴行は、角屋敷正生の指示のもとに、被疑者平沢圀昭、同徳本辰夫の両名によつて右角屋敷と意を通じたうえ行なわれたものであること。
以上(1)ないし(6)の事実によれば、他に犯罪の成立を阻却する事由が認められない限り、少なくとも、被疑者徳本辰夫、同平沢圀昭の所為がいずれも刑法一九五条二項、一九六条、六〇条に該当するものであることは多言を要しない。
(二) ところで、被疑者四名は、いずれも前記被疑事実(二)を否認し、被疑者平沢は、「一般護送の被疑者を送り出してから、各房の被疑者らのいつせい用便に入つたが、その際水野は上半身裸でパンツ一枚の姿となつており、衣服をつけるよう注意したがきかなかつた。角屋敷が房の扉を開けるよう指示したので扉に近づくと水野はパンツを脱いで全裸となり、扉を開けたとたん『おれはこの方がいいんだ』とわめいて頭突きを加えてきて暴れ出したので、角屋敷の指揮で徳本と協力し、水野に対する制止行為に入り同人を六房に収容したが、なおも暴れるので水野を房内に倒し、両手に後手錠をかけ、足をロープで縛つて制圧したが、午前八時前に角屋敷の指示で徳本が水野の戒具を解除した。水野の両手・両足に手錠をかけ、その両手錠をロープで結びいわゆる逆えびの姿勢に水野をしばり上げたことはない」旨を、また、被疑者徳本は、「同日午前七時三〇分ころ、四房の水野を用便に出すため平沢が扉を開けたら、全裸となつた水野がいきなり平沢に頭突きを加えてきて暴れ出した。角屋敷が自分にも協力を求めてきたので、同人・自分・平沢の三人で水野を制止して六房に入れたが、なおも暴れるので三人がかりで水野に後手錠をかけ、ロープで足をしばり制圧したが、同八時前水野が謝つてきたので角屋敷の指示で戒具を解除した。水野の足に手錠をかけたことはなく逆えびの姿勢にしたことはない」旨をそれぞれ弁解するとともに、同署備付の五月一日付留置人出入簿に「水野が指紋採取・写真撮影のため午前八時に留置場から出て同八時二〇分に同留置場に入つた」旨の記載があるところから、午前八時以前に水野の戒具を解除している旨を主張しており、被疑者小林は、「水野が角屋敷らに制止されて六房に入れられたことは知つているが、自分は一切手を出しておらず、終始看視台にいた」旨を、また、被疑者佐藤は、「水野が六房に入れられ制止されたときは、自分は一般護送車の迎えのため署の玄関に出ており、留置場内にはいなかつた」旨をそれぞれ弁解しているので、当日の留置人の供述を中心に関係証拠について、以下検討することとする。
(1) 事実調の結果および不起訴記録、(証拠略)を総合すると、(イ)同年五月一日午前七時二〇分ころ千住警察署に出勤して留置場に入つた角屋敷正生は、当直勤務者であつた被疑者小林らから、前夜水野が酩酊して入房し、房内で暴れたり大声を出して喧騒をきわめたうえ房内で小便をしたことなどの行状について報告を受けるや、これに憤慨して水野に対し懲罰を加えることを意図したこと、(ロ)右角屋敷は、被疑者平沢をして水野に制裁を加えることを予告させ、自らも同人にその意思を告げたので、同人はこれに対する覚悟をきめて全裸となつたこと、(ハ)角屋敷の指示で水野を四房から六房に移した際、同人が被疑者平沢らに頭突きをするなどの暴行を加えたなんらの形跡もないこと(この点は、当日四房で水野と同房であつた留置人三宅信幸の供述参照)、(ニ)六房内において、水野に対し、角屋敷の指示のもとに、被疑者平沢、同徳本が右角屋敷と意を通じたうえ前記(一)の(4)の暴行を加え、その際あらかじめ用意した手錠、ロープをもつて後手錠・足手錠をかけてその両手錠を背面でロープで結び、いわゆる逆えび型に緊縛したこと、(ホ)当日の留置人中野富夫、同松下貴司、同三宅信幸が前記特別護送(いわゆる四・二八事件の被疑者の護送)準備のため留置房から出された際、いずれも、水野が六房内で逆えび型に緊縛されたまま放置されている状況を現認していること、(ヘ)右特別護送の準備が完了したのは同日午前九時三〇分ころであることは、尾形勇治、黒沢良平、有賀温の各供述および被疑者佐藤の供述により明らかであるから、水野は少なくとも右の午前九時三〇分ころまで前述の状態のまま六房に放置されていたものと推認できること、の諸事実が認められ、右の認定に反する被疑者徳本、同平沢の前記弁解および角屋敷正生の供述は、相互に口裏を合わせた疑いが強く、到底信用できない。
(2) (略)
(3) また、両前腕手関節部・両下腿足関節部圧挫傷の傷害については、警察医渡辺繁、東京拘置所看守部長津久井要吉らの供述および同拘置所長の水野勝吉に関する病状所見回答書等によると、水野が昭和四四年五月一三日千住警察署から東京拘置所に移監された際行なわれた健康診査のときに水野からなんら疼痛ならびに故障個所について訴えがなかつたばかりか、診察の結果も異常が認められず、健康診査簿、診療簿等にも瘢痕その他外傷痕についての記載がないこと、および水野が同拘置所に入所した際作成された人形カード(入所者の身体の特徴を記載するもの)にも右圧挫瘢痕の記載がないことが認められるけれども、水野が前記拘置所の医師やその他の関係者に対して前記瘢痕について訴えなかつたのは、拘置所も警察官と同様、訴えても仕方がないと考えていたことによるものであるとの弁解は一概に排斥することができないし、また、人形カード、健康診査簿、診療簿等に瘢痕の記載がないのも、見落す場合がないとはいえないこと、および入所者に手錠のあとがついているのは通常のことであるので、それが擦過傷であれば人形カードに記載するが、後に残らないような傷であれば記載していないことが前記津久井要吉の供述等に徴し明らかであるから、右の点は、必ずしも前記(一)の(5)の傷害に関する事実を認定する妨げになるものとは認められない。なお、前述のように、拘置所に入所する者に手錠のあとがあるのは通常であるとすると、水野の場合にも、適法に手錠をかけられたことによる瘢痕もあるのではないかと考える余地はあるが、両下腿足関節部に手錠を使用することは通常ほとんど考えられないところであり、かつ、本件暴行の態様からみて、前記圧挫瘢痕の主たる原因は本件暴行にあるものと認めるのが相当である。
(4) (略)
(5) 以上要するに、被疑者平沢圀昭、同徳本辰夫の両名が角屋敷正生と共謀のうえ、水野勝吉に対し、手錠・捕じよう等の戒具を使用し、かつ暴行を加えた所為(前記(一)の(1)ないし(6)参照)が、既に説示したとおり、もつぱら同人に対する懲罰の目的にあつたものと認められる以上、いずれも刑法一九五条二項、一九六条、六〇条に該当するものであることは明らかである。
(6) しかし、被疑者小林登については、その弁解にそう状況がうかがわれ、とくに当日の留置人渡辺晴高、同松下貴司、同木幡紀久男の供述によると、同被疑者が第六房における水野勝吉に対する前記暴行の間、看視台に立ち、暴行には手を出さず、「もう、いい加減にやめたらいい」などと言つていたことが認められるので、たとえ、同被疑者が右暴行の際、角屋敷正生の指示により第六房の電灯を消した事実があつたとしても、同被疑者が水野に対する前記暴行に加担し、あるいは角屋敷らと共謀したものと認めることは困難であり、他に前記弁解を覆えすに足りる証拠も十分でないので、結局同被疑者に対する犯罪の嫌疑は不十分といわなければならない。
(7) また、被疑者佐藤安信については、同被疑者が前記暴行に加わつたとする留置人中野富夫、同渡辺晴高、同竹内保広の各供述が存するけれども、右の供述は、いずれも同被疑者の暴行を現認したというものではなく、具体性に欠けており、同被疑者の犯行現場にいなかつたという前記弁解を覆えすに十分なものとは認められない。かえつて、検察事務官上西明作成の昭和四六年三月二日付捜査報告書によると、一般護送車は五月一日午前七時〇分空車で東京地検第二庁舎を出発し、上野警察署で被疑者七名を、下谷警察署で被疑者三名を、千住警察署で詐欺の被疑者茂庭守を、南千住警察署で被疑者三名を、王子警察署で被疑者一名を、滝の川警察署で被疑者三名をそれぞれ乗車させて同日午前八時四五分東京地検第二庁舎に到着したことが明らかであるから、被疑者佐藤の前記弁解にそう状況が認められるので、結局同被疑者が水野に対する前記暴行に加担し、あるいは角屋敷らと共謀したことを認定するに足りる証拠が十分でなく、犯罪の嫌疑は不十分といわなければならない(なお、水野勝吉の当裁判所に対する供述中に、被疑者佐藤も前記暴行に加わつた旨の供述部分があるが、これは、同僚の竹内保広から佐藤巡査も暴行に加担した旨を聞いていたことによるもので、水野自身が現認したわけのものでないことは、水野勝吉の検察官に対する昭和四五年九月二五日付供述調書に徴し明らかであるから、前記供述部分は採用できない)。
(三) なお、請求人水野勝吉は、被疑者平沢圀昭、同徳本辰夫および角屋敷正生らの前記暴行により両前腕手関節部・両下腿足関節部圧挫傷の傷害を蒙つたほか、加療数週間を要する右第八肋骨骨折の傷害を負つた旨を主張しているので、不起訴記録および証拠物、別件記録および証拠物、並びに事実調の結果を総合して、以下検討することとする。(昭和四四年五月二八日越川宏一撮影の水野勝吉に対する胸部レントゲン直接撮影写真一葉((撮影条件二〇〇ミリアンペア、八四キロボルト、〇・一秒))((東京地裁昭和四四年押第一〇〇七号の三))を「第三号レントゲン写真」といい、同年七月八日右越川撮影の前記水野に対する胸部レントゲン直接撮影写真三葉((撮影条件前同様))((前同号の四))を「第四号レントゲン写真」という)。
(1) 医師津山直一は、その鑑定書および意見書において、「(イ)水野勝吉の右第八肋骨に関しては、昭和四四年五月二八日撮影の第三号レントゲン像にも、同年七月八日撮影の第四号レントゲン像にも肋軟骨移行部より約二糎外側に完全骨折が認められ、この像は医師越川宏一の同年五月二八日の診察の際の臨床所見記載事項とも一致すること、(ロ)右第六、七肋骨に関しては、第三号レントゲン像からは明らかでなく、ただ、第四号レントゲン像上第六肋骨に肋軟骨移行部より約三糎外側に仮骨様像を伴う皹裂骨折類似像を認めるが、この所見は第四号レントゲン写真のうち胸廓全体の写つているレントゲン像の左側第六肋骨にも肋軟骨移行部より約四糎外側に認められるので、異常所見というより肺紋理の重畳によるものと考えられ、また、右第七肋骨については明らかな骨折像なく、医師越川宏一の初診時所見に圧痛、自発痛、腫脹の記載のない点より考えても、右第六、七肋骨骨折の存在は明らかでないこと、(ハ)完全骨折の認められる右第八肋骨について、昭和四四年五月二八日撮影の第三号レントゲン像ではその骨折部に仮骨形成は認められないが、同年七月八日撮影の第四号レントゲン像では仮骨形成は著しいが骨折部の骨性癒合は未完了で、なお骨折線が開存しているところからみて、右骨折は同年五月二八日よりかなり近い時点で起つたものと想定され、同年五月二八日の前約二週間以内に発生したものと考えられること(なお、肋骨骨折は骨折のうち癒合の起り易い骨折で二週ないし三週以内にレントゲン像上仮骨形成を示すものである)」旨の鑑定をしており、また、医師船尾忠孝は、その鑑定書において、「(イ)昭和四四年五月二八日撮影の第三号レントゲン写真では、水野勝吉の右第八肋骨において、肋軟骨移行部から背椎側約一・〇糎のところに骨折端のずれを伴つた肋骨完全骨折がみられるが、この部において仮骨形成は認められないこと、およびその他の肋骨では右第六肋骨にひび割れ骨折と覚しい陰影がみられるが骨折と明言できず、その他に骨折と思考されるような陰影の存在は認めがたいこと、(ロ)昭和四四年七月八日撮影の第四号レントゲン写真では、前記右第八肋骨の骨折部に相当して仮骨形成が著明にみられること、および右第六、七肋骨において、肋軟骨移行部から背椎側へ向つてそれぞれ約三・〇糎および約二・〇糎のところに不完全骨折(ひび割れ骨折)と覚しい陰影が認められ、仮骨形成が第六肋骨では軽度に第七肋骨では極めて軽度に認められること、(ハ)肋骨骨折の陳旧度に関しては、骨折部に相当する皮膚の変色、表皮剥脱、触診上の所見および疼痛などの臨床所見ならびにレントゲン写真による仮骨形成の程度から推定できるが、個人差、骨折部の局所的条件ならびに年齢的条件、栄養状態などの全身的条件によつて影響されるのでこれを明言できないが、成人の肋骨ではレントゲン写真で仮骨形成がみられるのは骨折後三、四週間内外と一般にいわれていること、(ニ)したがつて、昭和四四年五月二八日撮影の第三号レントゲン写真では右第八肋骨の骨折部に仮骨形成が認められないので、該写真のみから判断すれば、本骨折の受傷時期は当日直前から逆算して三、四週間以内で比較的新しい骨折と判断されること、すなわち同年五月二八日から同年五月一日位の間で恐らく五月二八日に近い時期に受傷したものと推測されること、(ホ)また、昭和四四年七月八日撮影の第四号レントゲン写真では右第八肋骨では仮骨形成が著明で、右第六、七肋骨では軽度であるので、該レントゲン写真から右第六、七肋骨の骨折が同第八と同時に生じたとすれば、これらの骨折の受傷時期は同年七月八日から逆算して約五週間以上経過したものでこれに近い時期、すなわち同年六月三日以前でこれに近い時期に受傷したものと推測されるが、同年五月二八日撮影の第三号レントゲン写真ですでに肋骨骨折がみられるので該レントゲン写真と綜合判断すれば、受傷時期は同年五月二八日以前でこれに近い時期と推測されること、(ヘ)さらに、昭和四四年五月二八日の医師越川宏一の水野勝吉に対する初診時の臨床所見によれば、咳、胸痛が軽微で皮下組織の腫脹、皮下出血などが認められないとのことであるので、該骨折が受傷直後のものとは思えないが、受傷後一週間以内であつてもむじゆんしないものと思考されること、また骨折部の肥厚はすでにかなり硬化しているとのことであるが、このような触診上の硬結は単なる皮下出血でも嚢腫状のかなり硬い硬結を触れることもあるので、本所見も受傷後一週間以内を示す所見と考えてもむじゆんはしないように思われること、(ト)以上を総合判断し、水野勝吉の右第六ないし第八肋骨骨折を惹き起させた受傷時期は昭和四四年五月二八日を基準として約一週間内外以前または一週間以内、すなわち同年五月二一日前後またはそれ以降と推測される」旨の鑑定をしているので、右の鑑定結果等によると、肋骨骨折の受傷時期は昭和四四年五月二八日を基準として同日の前一週間ないし二週間以内と認められ、本件犯行時である同年五月一日と著しく日時のへだたりがあるものといわなければならない。なお、この点は、事実調の結果、とくに鑑定人池田亀夫作成の鑑定書のうち「水野勝吉の右第八肋骨には完全骨折がみられ、右第七、第六肋骨には骨折は認められない。右第八肋骨骨折の受傷時期は昭和四四年五月二八日を基準として約二週間から四、五日前までの間と推測される」旨の鑑定結果とも符合するものである。
(2) また、水野勝吉は、同人も自認しているように、その勾留中に前記千住警察署留置場の運動場において、腕立て伏せを数一〇回くり返したり、背中に大人一人をのせて数回腕立て伏せを行なうなど過激な運動をしたこと、およびその際水野がとくに疼痛を訴え、あるいは疼痛にたえて腕立て伏せを行なつたという状況も存しなかつたことが明らかであるうえ(留置人森幹雄、同竹内保広の供述等参照)、同人は、昭和四四年五月一三日東京拘置所に移監され、同月一九日同所を保釈出所後、同月二〇日から同月二二日まで神奈川県厚木市内の建築工事現場でハツリ工として(日給三、五〇〇円)、その後同月二三日から同月二八日のレントゲン写真撮影時までは土工として(日給二、〇〇〇円)休みなく稼働していた事実を認めることができるし(証拠略)、その間水野が東京拘置所医師その他の関係者に胸部の疼痛並びに故障個所を訴えていない事実も認められるので(証拠略)、右の諸事実に前記(1)の鑑定の結果、とくに肋骨骨折の受傷後一二日以内の時期であれば、腕立て伏せをする際に必ず疼痛が起ると考えられるとの点、およびハツリ工の仕事はハンマーでコンクリート塊をこわすなどの作業であつて、肋骨骨折があつては作業困難であること(粕谷安夫の供述等参照)などを考えあわせると、前記肋骨骨折(もつとも、右第六、七肋骨骨折の点について疑問はあるが、かりに骨折が認められるとしても)の受傷が、昭和四四年五月一日行なわれた本件暴行に起因するものと認定することは困難といわなければならない。
(3) もつとも、水野勝吉を診察した中野共立病院の医師越川宏一は、その診断書および意見書並びに別件において、「(イ)第三号レントゲン写真では、水野の右第八肋骨の肋軟骨移行部より約一糎の背椎側部に骨折端のわずかなくい違いをみる肋骨骨折を認め、この骨折は、触診により判明した部分的肋骨肥厚と圧痛のある部に一致し、その程度は完全骨折であること、(ロ)第四号レントゲン写真では、右第八肋骨骨折部に著明な仮骨形成がみられたほか、右第六、七骨折の不完全骨折の仮骨形成が発見されたこと、(ハ)肋骨骨折が仮骨形成を起すのは個人差や年齢等によつて多少の違いはあるが大体三、四週間といわれており、昭和四四年五月二八日撮影の第三号レントゲン写真では仮骨形成をほとんど認めていないので、受傷後、初診時である同年五月二七日まで最大四週間程度経過しているものと推定できること、(ニ)受傷直後であれば咳、胸痛、局所皮下組織腫脹、皮下出血がつよいはずであるが、初診時の同年五月二七日には咳、胸痛は軽微であり、皮下組織の腫脹、皮下出血等は認められず、骨折部の肥厚は既に可成り硬化しているので、受傷後二、三週間以上たつているものと考えられること、(ホ)以上の臨床所見および仮骨形成の時期等を総合して、水野勝吉の右第六ないし第八肋骨骨折を惹き起させた受傷時期は、昭和四四年五月二八日を基準として三、四週間以前であると推定できる」との意見を述べており、医師村上忠重の同年一一月一五日付鑑定書も越川宏一の前記意見をほぼ全面的に支持していることが不起訴記録並びに別件記録により明らかである。しかし、越川宏一の前記意見の根拠とされた資料によつては、昭和四四年七月八日撮影の第四号レントゲン写真により仮骨形成が認められることを基準として受傷時がその三、四週間以前であるとはいいえても、仮骨形成の認められなかつた同年五月二八日を基準として、仮骨形成がレントゲン医学的に証明できるまでの期間である三、四週間前に受傷したとの判断は当然にはできないはずであり、越川医師は、同年五月二八日にはレントゲン写真上仮骨形成は認められないが、それがレントゲン医学的に証明できる程度にできはじめていたものと推定し、これを前提として前記の判断を下していることがうかがわれ(別件における証人越川宏一の供述参照)、しかも、五月二八日に仮骨形成が前述の程度にできはじめていたと推定した根拠は明らかでなく、水野から受傷したのが五月一日であると同人を診察した際に聞いていたためではないかとも考えられ、また、第四号レントゲン写真では右第八肋骨の仮骨形成は著しいが、骨折部の骨性癒合は未完了で骨折線が開存しているとの点を十分考慮していないのではないかとの疑問もある(なお、鑑定人池田亀夫作成の鑑定書参照)。そして、越川医師の水野に対する初診時の創傷についての所見は、必ずしも、右第六ないし第八肋骨骨折の受傷時期が五月二八日から三、四週間以前と推定する根拠になるともいえないので、結局、右越川医師の意見および右意見をほぼ全面的に支持する旨を述べているにすぎない村上忠重の前記鑑定書は、いずれも昭和四四年五月一日に骨折が生じたとの事実を認定する証拠としては的確なものとはいえず、前記(2)の判断を左右するに足るものとは認められない。
(4) 請求人水野勝吉は、検察官に対し「保釈出所後の五月二一日か同月二二日ころ厚木市内の天田製作所の現場で大ハンマーを使つてコンクリートの土間をこわしているとき、右胸にがくんと急に痛みがきて、息がつまるほどで、一時仕事をやめ、それ以後は、激しい仕事は同僚の竹内にやつてもらつていた」旨を供述していたが、当裁判所に対しては「保釈出所後、激しい仕事は始めからやらないようにしていた」旨の供述をしており、また「水野は釈放後胸が痛いといつていたこと、水野はあまり大ハンマーを使わず、力のいる作業は同僚の竹内がやつていたようだ」との現場責任者小池裕一の供述、あるいは「水野が本件の暴行を受けた後、胸の痛みを訴えていた」旨の留置人竹内保広、同森幹雄、同三宅信幸、同近藤新治等の供述は存するけれども、右の痛みが肋骨骨折によるものかどうかは明らかでなく、むしろ、前記(2)で述べたように、水野が本件暴行をうけてから三日間ぐらいの間、運動時間に腕立て伏せをやり、最高一度に五〇回位つづけたり、背中に人をのせたままでやつたりしていること、水野は保釈後、数日ハツリ工として稼働していること、および角屋敷正生らによつて水野と同じような暴行を加えられた加藤貞光も胸や背中に痛みを感じたと述べているが、肋骨骨折までの傷害をうけたとは認められないことなどを総合すれば、右の痛みが肋骨骨折に基づくものであつたと断定することはできない。
(四) 以上説明のとおり、被疑者平沢圀昭、同徳本辰夫両名の所為はいずれも刑法一九五条二項、一九六条、六〇条に該当することが明らかであるので、進んで、犯罪の情状について考察する。
被疑者両名は、さきに述べたとおり、いずれも、捜査係看守担当の警察官として法令によつて拘禁されている者を看守する職務に従事していたものであり、その職責上強制力を行使することが少なくなく、したがつて、留置人の人権を侵害するおそれも多分に存したのであるから、その職務を行なうにあたつては、常に法令を遵守し、かりにも権限を濫用してみだりに戒具を使用することがないよう厳に戒心すべき義務を負つていたものといわなければならない。とくに、手錠および捕じようは、とかく安易に使用されがちであり、また、その使用方法も多岐にわたるため使用に適正を欠くおそれが多いので、その取扱については、法律に定められた事由のある場合に限り、かつ、その使用目的を達するための最少限度において使用するよう留意することが要請されていたのである(昭和三二年一月二六日付矯正甲六五号法務省矯正局長通牒、被疑者留置規則二〇条参照)。しかるに、本件のように、戒具を懲罰の具に供し、かつ「逆えび責め」と称せられる不法な使用をなし、特別公務員暴行陵虐等の罪に問擬されるがごときことは、それが一般社会から隔離された警察署の留置場内で看守担当の警察官によつて行なわれたものであるだけに、一層軽視することができないのである。
もつとも、前記千住警察署管内には、当時、暴力団の組員や不良仲間が多く、彼らが留置された場合、房内で騒いだり、看守にば声を浴せたり、あるいは他の留置人を扇動したりするので、看守としては、留置場内の秩序維持にかくべつ苦労していたという事情が存したこと、および留置人が騒いだからといつて、そのつど上司に報告していたのでは、幹部会議の席上などで看守担当主任としての能力を疑われるような雰囲気もあつたこと、などがうかがわれるけれども、だからといつて本件のような違法行為が許されるべき筋合のものではないのであるから、被疑者らの責任は厳しく追求されなければならない。
そこで、既に認定したように、看守担当主任として本件犯行を企図し、被疑者平沢、同徳本を指揮または指示した巡査部長角屋敷正生を訴追すれば、被疑者両名に対しては、起訴せず起訴猶予とすることが相当といえるかどうかについて、さらに検討を加えることとする。
なるほど、前記千住警察署刑事課捜査係看守担当主任であつた角屋敷正生巡査部長は、看守担当の係員である被疑者徳本辰夫巡査長(巡査長は警察官の階級ではなく、巡査長たる巡査であることについて、昭和四二年六月一日国家公安委員会規則三号三条参照)および同じく看守担当の係員であつた被疑者平沢圀昭巡査の職務上の上司であるから、被疑者両名は、角屋敷正生巡査部長の指揮命令に服従する義務があつたことは法文上明らかである(地方公務員法三二条、警視庁警察署処務規程二六条の二、二七条参照。なお、警察官として上位階級にある警察官の公務上の指揮監督にも服すべき地位にあつたことについては、警察法六三条参照)。しかし、他方では、警察官は職務に関する上司の命令を遵守するとともに、建設的な意見を積極的に具申し、進んで上司を補佐しなければならない(警視庁警察職員服務規程八条)とされているのであるから、もし職務上の命令の合法性について疑念をもつた場合には、直ちに直近上司にその旨を主張すべきものであり、とくに、命ぜられた行為が可罰的行為であつて、その可罰性を警察官自ら認識しうるものであるとき、あるいは命ぜられた行為が人間としての価値をそこなうものであるときには、命ぜられた行為を執行する義務を負つていないものと解すべきである。したがつて、右の行為の合法性に疑念を抱いた警察官がその旨を上司に申し出たが、なおその命令の執行を命ぜられた場合であつても、これを執行した警察官は個人的責任から解放されることはないものといわなければならない。まして、本件のごとく、戒具の使用目的が留置人に対する懲罰という不法なものであり、かつ、戒具の使用方法も「逆えび責め」と称せられる不法なものである以上、看守担当主任である角屋敷正生巡査部長による被疑者らに対する本件の指揮ないし指示は、一見明白な違法命令であつて、被疑者両名としては、もともとこれに服従する義務がないことは勿論、これを執行することも許されないものである。したがつて、被疑者両名において、上司である角屋敷正生巡査部長の指揮または指示により本件犯行に加担したものであつたとしても、その刑事責任を免れることはできない。
しかし、不起訴記録および事実調の結果、とくに証人山野義雄、同岡田芳雄、同尾形勇治の各供述等によると、次の諸事実が認められる。すなわち、
(1) 新たに採用された巡査は、警視庁警察学校において、基礎的教育訓練として「初任教養」の課程を履修することになつているが、その修業期間は一年とされており、そのうち六時間が警察職員の服務関係の講義にあてられていること(昭和二九年八月二日国家公安委員会規則一二号警察教養規則六条、同警察庁訓令七号警察教養細則二条一項、一三条一項、一四条参照)、および右の講義のなかで、上司の職務命令が違法な場合これに服従する義務がないことの指導が行なわれるのが通常であるが、「初任教養」を終えた巡査が警視庁警察署に配置されて上司の指揮監督の下に任務を遂行するようになると、上司の命令があつた場合それが合法かどうかということを考えてから職務を行なうことはなく、まず上司の命令には服従するという態度で行動しているのが実際であること。
(2) 被疑者の留置および留置場の管理について問題が生じた場合、制度上は、看守担当主任が看守担当の捜査係長を経て刑事課長に報告し、その指揮をうけることになつているが(前記1の(三)参照)、現実には、留置場内の秩序維持について看守担当主任の発言力が大きいため、留置場の中では看守担当主任にほとんど絶対的な権限が与えられているとの感があること、およびこの傾向は、留置場内で事故が生じた場合に看守担当主任の責任が厳しく追求されるという運用がなされていることから、一層強くなつていること。
(3) 刑事課捜査係の主任には、巡査部長をもつて充てることになつているが(警視庁警察署処務規程二六条の二)、同係捜査担当主任の場合には、通常二名以上の主任がいるので、これらの巡査部長が部下の巡査、巡査長と上司である捜査係長(警部補)との間にあつて、中間的存在としての役割を果たしていること、およびこれに対して、看守担当主任の場合には、主任が一名であることと捜査係長が看守事務を兼務しているため、巡査部長が部下の巡査、巡査長と上司との間の中間的存在とはなりえず、部下の警察官に接する態度が、他の担当主任と異なり、厳しくなる傾向にあること。
(4) 本件当時、千住警察署刑事課捜査係看守担当主任であつた角屋敷正生巡査部長は、同署に配置される前に、警視庁刑事管理課に勤務して看守事務に従事した経験があり、看守事務並びに関係法規に精通し、事務処理能力がすぐれていたため、上司の信頼が厚く、部下の警察官からも尊敬されていたこと、および右の状況のもとでは、角屋敷巡査部長の指揮ないし指示に対して、部下である警察官がこれに逆うことは事実上極めて困難であつたこと。
(5) 本件犯行については、既に、角屋敷正生に対する特別公務員暴行被告事件が東京地方裁判所に係属しており、右被告事件につき有罪判決があつてこれが確定した場合には、当然、共犯者と認定された被疑者両名に対しても相当な行政処分が予想されること。
(6) 本件犯行により蒙つた請求人水野勝吉の傷害は、手錠のあとであり、さして重大なものとはいえないこと。
以上の諸点および本件犯行に至る経過、その他諸般の事情を考慮すると、本件については、主犯者である角屋敷正生のみを起訴すれば足り、被疑者平沢圀昭、同徳本辰夫の両名を起訴するまでの必要性は認めがたいものといわなければならない。
三、結論
以上説示したように、前記被疑事実(一)について被疑者小林登、同平沢圀昭の両名には犯罪の嫌疑が不十分であり、前記被疑事実(二)については、被疑者小林登、同佐藤安信の両名には犯行を認定するに足る証拠が十分でなく犯罪の嫌疑不十分に帰するが、被疑者平沢圀昭、同徳本辰夫の両名が角屋敷正生と共謀して特別公務員傷害に及んだことは明白であり(もつとも、請求人の蒙つた肋骨骨折の傷害が被疑者らの本件暴行に起因するものとは認められない)、ただ諸般の情状を考慮すると、主犯者である角屋敷正生を起訴すれば、あえて右被疑者両名を起訴するまでの必要性は認めがたいので、結局、前記被疑事実(一)(二)に関し検察官がした不起訴処分は相当であつて(ただし、前記被疑事実(二)について、請求人の蒙つた傷害が被疑者らの本件暴行に起因するものとは認められないとした点が一部失当であることは既に説示のとおりである)、本件請求はいずれも理由がないことになるから、刑事訴訟法二六六条一号により、本件請求をいずれも棄却することとし、主文のとおり決定する。